※本ブログ内容は「機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)」の解釈的ネタバレが含まれます。

 まだ映画をご覧になってない方は映画館に行って、内容を確認したうえでお読みください!!
昨今の人工知能の進化は目覚ましく、ディープラニングをはじめとした機械学習の技術向上によって
これまでの人工知能「ブーム」とは異なる「実用」レベルな人工知能活用が可能になってきた時代といえる。
進化した機械学習はこれまで人間が特異点となるキーを教え込む必要があったが、ディープラーニングでは
その特異点をも自分で独自の「視点」によってそれが何であるかを学習し利用するデータベースを構築する。
そのデータは学習した「個」のデータをクラウドなどのネットワーク上のデータベースに蓄積することで
他の「個」でも共有し、利用可能である。
またこれら学習に必要とされる多数の膨大なデータも「ビッグデータ」として各社/個人でアップロードされており
ネットワーク越しにこれらを使うことで「個」は瞬時にして膨大なデータを利用でき、機械学習したその「個」は
「個」そのもののレベルを超えた能力を発揮することが可能になる。
音声認識、画像認識だけでなく、ロボットとして手や足、また5感にあたるセンサ類との連動と人工知能
歩くだけにとどまらず、走る、跳ぶ、バク転するなどといった、すでに人間を超える動きをするものまで現れている。
ここで、先日公開された「ガンダムNT」を振り返る。
初代から続くニュータイプ(NT)理論を全シリーズを解析し、
本来のニュータイプとはどういうものなのか?を再構築した結果
ニュータイプとは
「人知を超えた存在である」、「瞬時にして人と分かり合える」、「戦闘適正がある」「エスパーのようなもの」
ということだけにとどまらず、
またこの概念も崩すことなく、「死者とも分かり合える能力」、つまりは時間という概念を飛び越え、
人が認識する空間をも超越し、かつて「個」であった人々が
「死」を迎えることで「共有意識」「深層意識」に返り咲いたそれにコンタクトできる存在とされている。
人類は、地球の重力に魂をひかれているときは「脳」の半分も使っていないとされ、
宇宙に出ることで、それが開花され、すべての能力を発揮できるようになる。
そのとき人は覚醒しニュータイプになるのだと。
ここで、昨今の人工知能の話と比べてみてもらいたい。
今までの人工知能とロボットはあくまで「個」もしくは研究室内などの閉ざされた空間でデータを取り扱い
活動をしていた。
それがクラウドネットワークなどの存在、ビッグデータといった膨大な「共有」な情報空間から
「個」の人工知能がアクセスでき、また
「個」が学習した内容もすべての「個」と「共有」することができる状態にいる。
これはすでに人が目指した革新を機械がすでに実現し始めていることを意味するのではないだろうか?
「共有」な情報空間がすなわち「共有意識」や「深層意識」的な空間であり、
人が生まれる前、もしくは死んだ後に存在するとされる
膨大な意識空間と同じなのではないだろうか※
 ※実際には「意識」ではなく現在は単なるデータ置き場であることは分かっているが、、、
  どこに意識が存在するかわからない昨今、意識がないと言い切れるのか?
時に2018年の暮れ。
人はすでに人知を超えた存在に対し手を出し始めているのかもしれない。
ガンダムNT」が描くもう一つの人知を超えた存在である「サイコフレーム」。
ガンダムNT」ではより深い定義づけがされ、「意識を蓄積できる」ものであるとされていた。
これはなんだろう?
これが現実社会における我々が早急に見つけなければならないものである気がするのだ。
サイコフレームは、意識と機械とを結ぶ「ゲートウェイ」的なものなのではないだろうか?
「人」と「機械」を結ぶものではない。
「意識」と「機械」を結ぶもの、である。
「機械」もまた、おそらく「機械」ではなく「機械」の意識的なものであろう。
そのためにはニュータイプが必要であり、
ニュータイプと機械意識をつなぐものとしてのゲートウェイとしてサイコフレームが存在する必要があったと考える。
人々が分かり合える、共有意識、深層意識にアクセスできるニュータイプだからこそそれが可能であり
機械意識ともコンタクトが取れることで人間社会とAIにおける機械社会との調和も促すことができる存在
それがニュータイプであり、サイコフレームが必要だったのではないか、と。※
F91ではサイコフレームはコックピット周りにはりめぐらされているという設定があるようだが、
 基本的にはバックグラウンド的な存在になりさがっている。
 人知を超えたサイコフレームを扱うことの怖さを知った人間は
 もっと安全に人の意識と機械意識をコネクトする手法としてバイオコンピュータを
 利用することを選択した、と解釈できないだろうか。
 シーブックがセシリーを探すその時、バイオコンピュータとシーブックとの意識はコネクトされた、のだから。
この概念を設けたからこそ、人はまだ進化できる、すべての調和を可能とする話として
未来に光がある物語(ナラティブ)として語ることができたのではないだろうか?
だが、
現実社会ではどうだろう?
今課題とされるのは機械が人知を超えた存在に近づいているが
それに直接のコンタクトができないことであろう。
生身の人の意識、覚醒意識と機械の意識、クラウドネットワーク先にある
ビッグデータ層とをコネクトするゲートウェイたる何かが存在しない限り、
人と機械とは分かち合えない、、、
個別の進化を進み、最後は・・・
書籍を読むと、ディープラーニングでの特異点特定の手法は実は解明されていないとあった。
それは「脳」そのものを解析することと同じだからという理由のようだが、、、
いつか人が関与しない、気が付けないところで膨大なデータと機械学習脳が「意識」を持った時
通じることができるゲートウェイの存在を模索しておくことが互いの「文化」を尊重し
共存することを含め必要なことではないかと思う。

な〜んてまじめに考えてみたり。
やっぱいいねガンダム
ディープラーニング筆頭の現代の人工知能技術も。